城北高野球部が関東大会に

 城北学園硬式野球部が初めて関東大会出場したそうです。35年くらい前の城北中は百名募集で、中学軟式野球部などは試合ができるかどうかの部員数。高校へ上がっても硬式にはほとんど行かなかったし、軟式野球部へ進む人もわずかでした。硬式の部員は多かったけど、1年生は練習中、外野で球拾いか声出しか、グランドの整理。顧問の先生は練習中、一人立って何も言わずグランドをじーっと見ている感じでした。

 僕は小学生の頃は住宅地育ちで、キャッチボールという物をやった事がなく、今でも野球のルールはよく知らない人ですが、部員が少ないというので勧誘されて、中学2年まで野球部に入っていました。中1(昭和56年)の頃は、中3が8名、中2が3名、中1が3名くらいで、朝練習の為、顧問もほとんど練習には来ないし、合宿もないクラブでした。中2になった時、友達が先輩とケンカして辞めちゃって、中3の先輩も一貫校なのに夏が終わると引退する慣行があって、僕も野球を知らないから部長が中1という事で、スコアブックも書けないのにマネージャーをやりました。

 あの頃は毎日、何をやっていたのかなぁ(笑) とにかく1年生には練習させなければいけないと思ったので、顧問の先生に毎朝練習に来てもらって、頻繁にツテを当たって練習試合を組んでもらう様にして、自分がやった事と言えば、部室にペンキを塗った事とかでしょうか。中3の文化祭の時、土曜の午前中に先生チームとの対抗戦というのがあって、そんな時間じゃ人が集まらないだろうと後楽園球場へ行って、観客の声を録音して試合中にグランドで流してもらったところ、結構客が集まって喜んだ覚えがあります。

 昭和57年から中学枠が増えた影響で部員数も徐々に増え、20年くらい前でも中学軟式は30名とか書いてありましたから、まあ徐々にレベルアップしていた所へ、最近の城玉野球部の活躍に影響も受けたんじゃないかと思います。スポーツ進学校と自称していた時代もあったくらいですから、来年から始まる高校の推薦入試で、またスポーツの強い生徒が入ってくるのでしょうか。

  高校野球部の顧問だった森田先生は親父の中学時代の同級生で、野球これ一筋の人だったそうです。戦前は「野球禁止」の府立4中の先生方が多い中で、またラグビー、剣道、サッカー、少林寺と強豪チームも多い中で、クラブを強くするのには苦労されたんじゃないかと思います。生徒新聞の縮刷版の寄稿記事を見ていて一番まっとうな文章を書いておられたので、副校長だった須田先生に昔、同窓会の事務局を作って責任者にしてはどうかと言った事があるのですが、後任の副校長になられたと聞いています。

 それと中学の頃、よく高校の軟式野球部と練習試合をやってもらっていたのですが、顧問の英語の岩切先生が高2の時、日航機の墜落事故でお亡くなりになって、1周忌に大阪へ伺った事があるのですが、やってきたのは僕の他に先生が2人と地元の大学へ通うOBが1人。当時の城北は、出身高校は1流、大学は2流という先生が結構おられて、先生は生野高校という進学校の出身だったそうですが、将来は大学教授を目指しておられたんだそうです。

第56回秋季関東高等学校軟式野球大会報告!

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